多様性の尊重と多様性の偏重とのちがい

2021/09/29

 高市候補大健闘するも届かず、本来の日本が蘇るにはまだまだ時間がかかりそうです。しかし、そのために私たちが今すぐできる、とても大切なことがあります。それは、この総裁選の中でも見られたことです。

 それは、マスコミが高市候補のイメージを落とそうとして、同性婚や夫婦別姓を踏み絵のように使っていたことです。

 問題は、同性婚や夫婦別姓が踏み絵になるような社会的倫理感がすでに作られてしまっていることです。この社会的倫理感について、多くの人は何かおかしいと思いつつも、どうおかしいか分からず、下手に反対すると差別主義者と攻撃されるので、黙っている人が多いと思います。

 今流行っている社会的倫理の代表といえば、多様性の尊重でしょう。しかし、この多様性の尊重の実態は、多様性の偏重です。本当の多様性の尊重は、その前提として普遍性の尊重がなければなりませんが、それが無いからです。だから、、尊重でなく偏重なのです。

 生命の普遍性は、生命の維持・継承であり、国家・国民の普遍性は、国家・国民の生存・継承です。

 同性婚やLGBTなどという多様性は、その普遍性に反する選択をした結果ですから、社会の真ん中に図々しく出てきて制度として認めろ、と公言できる道理がありません。それを裏で煽っているリベラル派は、国家の解体という目的のために、そういう人たちを利用しているのです。

 このリベラル派の背後にいる金融グローバリストたちは、自らの地球支配のためには国家の存在が邪魔なために、それを弱らせようと、このような学問的にスジの通らない社会的倫理を、自らの影響下にあるマスコミを通じて、世界全体を洗脳しているのです。

 野田聖子候補は、人口減少の問題に命を懸けると云いながら、同性婚や夫婦別姓の制度化に賛成しています。それがどんなに矛盾しているか分からないようです。

 この多様性の偏重を、絶対に社会的倫理にしてはなりません。そのように頭を切り替えることが、そして堂々とそれを主張して論破して、みんなの洗脳を解いてやることが、本来の日本を取り戻す、第一歩になります。