体操協会は処分を撤回し、速見コーチの下での宮川選手の練習を保証すべし

2018/09/04
暴力

 今、ワイドショーを賑わせている速見コーチへの処分問題を聞いていて、不思議に思うのは、速見コーチが指導の一環として宮川選手の身体に腕力を振るったことを、暴力と決めつけて、それを前提として暴力は絶対いけない、という論調になっていることです。

 つまり、手を出したら即暴力、という短絡が、あたかも侵し難い正義であるかのように、人権と同じように、まるで相手を平伏させる黄門さまの印籠のように振り回されていることに、非常な違和感を覚えます。

 なぜなら、「暴力」という言葉を辞書で引いて見ますと、不当な腕力を行使すること、とか、合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。とあります。つまり、手を出したら即暴力ではないということです。その腕力が不当か否かの論議がまたくされていないことに対する、違和感です。

 体操協会の説明は、明らかに手を出したこと即暴力として、速見コーチに重い処分を下しています。だから、暴力を受けた当事者であり被害者とされる宮川選手に、事情を聴く必要は一切ないという態度です。これっておかしくないですか?

 指導の場面での行為が、不当な暴力であるか否かは、その指導に照らして判断されるべきです。現にそういう指導でオリンピックで4位という生成を上げているという実績があり、しかも、当の宮川選手も速見コーチの指導に信頼を寄せいて速見こちの指導を仰ぎたいと望んでいるにもかかわらず、それを邪魔するような処分を、日本の選手団が最高の形で練習できるようにサポートすべき体操協会が、あえてこの大事な時期にするのか?

 よく今の時代は、科学に基いて指導する時代になっている、暴力は時代遅れだ、という主張があります。そういう人間が分かっていないのは、指導そのものも科学的に行わなければならないということです。

 そもそも指導と云うのは、その目的を実現するために必要なことを、相手に認識させるように働きかけて、相手の認識を変えて、その認識の下にその目的を実現させるものです。

その相手の認識を変える方法として、科学的データーを示し言葉を通じて変えるものと、言葉だけでは相手の精神を代えがたい場合などは、身体を通して相手の認識を変えることも必要となることもあります。

 これも立派な指導です。それを相手の身体に触れて(暴力)はいけないなど、足枷をはめて指導の幅を狭めてしまうのは全く持てナンセンスです。

 しかも、特に体操のように間違うと命取りになってしまうような危険な技を使う場合は、散漫な認識、いい加減な認識で行うと危険なので、そういう時に相手を叩いて、相手の認識をシャキッとさせる必然性があるのだそうです。その意味で、速見コーチの暴力とされている行為は、合理的なものであり、正当性のある行為であって、決して暴力などではないと断言できます。

 それを、傍から見ただけという当事者でない邪な意図を汲んだ者の意見だけを用いて、当事者である宮川選手に一切聞こうとしない処分を下すというのは、そのことだけでも今回の体操協会の処分が如何に不当なものかが分かろうというものです。

 体操協会は、早急に処分を撤回し、速見コーチの下での宮川選手の練習を保証すべきです。